紫陽花恋模様


紫陽花の花が咲いたことに久子は嬉しそうに目を細めた。
日の日差しを浴びてキラキラと艶やかに光る紫色の花は自然と雨で鬱屈とした気持ちを晴らしてくれる。
家に下宿している書生は何かにつけては散歩に出かけているが、外に出ると彼の気持ちもわからないでもない。そっと紫陽花に触れて久子は微笑むと母の「久子」と自分を嗜めるような声が聞こえてくる。

「志摩さんが今日は早いお帰りらしいですから、食事の支度をそろそろ始めますよ」
「はい」

紫陽花から視線を外し、縁側から家に上がると雨の香りが鼻を擽った。どうやら一雨きそうだ。
彼女の予想が当たったのか、暗雲が静かに立ち込めていきぐずついていた空が鳴き出すのにそう時間はかからなかった。直ぐに雨の音が家を、町を包み込む。
志摩が帰ってきたのは雨脚が少しばかり落ち着いてからのことだ。鳥打帽を外し、濡れた着物を軽く拭うので慌てて手拭を差し出せばすまないね、と軽く笑った。
志摩春成。それがこの家の下宿人だ。帝大を出てからというもの、書生として忙しそうに過ごしているというが、久子はまだ彼の書いたものを読んだことがない。というのも彼は部屋には入れてくれるが草案を見せてくれたりはしてくれない。理由を尋ねても厭々、まぁまぁ、といつも曖昧にはぐらかされてしまう。謎多き下宿人ではあるものの人柄は朗らかで明るく、自然と久子にとっての良き刺激になっている。

「久子くん、そうらお土産です」
「本日はどちらに行かれてたんですか?」

見れば分かるさと笑った志摩の手には四角い紙でできた箱に包まれた何かがあった。どうやらそれを守って走って帰ってきたのだろう。不自然なほどに濡れていない形で出された箱を恐る恐る久子が開けると、ふわりと甘い香りが鼻を擽る。箱の中身のシベリアケエキにシュウクリイムは型崩れもない。
彼女が顔を上げれば、志摩は久子の視線に気づくこともなく、己の着物を脱ぎ水を絞っていた。志摩さん、と彼女が問えば彼は姿勢を正して「行ってきた場所がわかりましたか?」と謎掛けを楽しむようにその細い瞳をより一層細めて見せる。端正な顔立ちをしている彼の笑い方はどこか、より幼く見せる。

「銀座ですか?」
「正解です。出版社の人と打ち合わせに行ってきたら一雨降られて参りました」

困ったものです。しっとりと濡れた髪を拭いながら玄関より上がり込むと久子の母が志摩の帰宅に出迎えられなかったことを恥じるようにして顔を覗かせる。それを片手で大丈夫である素振りをしながら志摩は随分と落ち着いた足取りで家の中へと突き進んでいった。
取り残された久子は暫く経ってから、志摩の心遣いに気づき、あ、と何ともいえぬ声を上げると慌てて彼を追いかけた。
襖の前に立ち、志摩さん、と声をかければ志摩の少しだけくぐもった声が聞こえてくる。ゆっくりと襖を開けると彼はいつもの着物で机に向かいペンを走らせている。夏であるというのにも関わらず、彼の部屋は少しばかりひんやりとして涼しく、思わず久子は目を細める。

「有難うございます、シベリアケエキもシュウクリイムも」
「いえ、担当の方に女性というものは甘いものが好きだという話を丁度しまして」

そういえば、奥さんも久子さんも好きだったことを思い出した、という次第です。
視線を原稿に向け、背を向けたまま語る志摩に思わず久子は吹き出してしまう。彼はどうにもこうにも嘘が下手な人間である。吹き出したことにより、志摩がゆっくりと振り返るが笑いを抑えきれず彼女は口元を抑えてふふふ、と声を立てて笑った。

「志摩さんって、嘘をつく時いつも人差し指をトントンと叩くのご存知かしら?」
「それは初耳です」

驚いた表情をとった志摩に、久子はくすくすと笑った後に志摩に一歩、二歩ほど近づく。
彼の机から見える窓辺は相変わらず雨の音が軽快に鳴り響いており、曇った空は泣き止む様子はない。

「ケエキとシュウクリイムの前に、ご飯ですよ。お部屋に運びますか?」
「いや、下で頂きましょう」

彼はすくりと立ち上がった。不意に、久子の目に原稿の切れ端が見える。細やかな字であったため何と書かれているのかは分からないが……その横に置かれた「令嬢倶楽部」なる女性雑誌は彼女も好んで読んでいる本だ。
もしや、その中の誰かがこの志摩春成なのだろうか。視線を志摩に投げかけると彼はわずかに首を傾げた。
慌てて志摩に続くように部屋を出、階段を降りると彼女の母はてきぱきと手を動かし志摩に座るように促す。久子は母に言われるよりも前に台所に駆け込んだ。
食事中、母はシュウクリイムとシベリアケエキの話を聞くと上機嫌に笑い、志摩の軽やかな冗談にも手を叩いて笑っていた。紅茶は家にないため、緑茶で代用をし、久子と志摩がシュウクリイム、久子の母がシベリアケエキを食べていると、いつの間にか雨は止んでいた。

「そういえば、庭先の紫陽花が綺麗な紫色をしていましたよ」
「おや、それは明日にでも見ないと」

飄々と笑ってみせた志摩に、久子は淡く笑った。
……後日、とある作家が少々季節外れながら「紫陽花恋模様」なる小説を発表したのを見かけて久子が思わず吹き出したのは言うまでもない。


大正浪漫ネスク様への提出品。

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