やさしい風ならふく


撫子の花をいつだったか、父が守ろうとしたことがある。
たかが花であるかもしれないが、あの時父は何を思い、花を守ったのか。
小刀で花を茎から切ると、稲は撫子を手に持ったままゆったりと歩き出す。
夏の暑さに思わず気が滅入りそうだ。
じりじりと照らす太陽を睨むように目を細めていれば、ふと誰かに呼ばれたような気がして彼女は足を止めた。

陽炎の向こうに、誰かが見える。
その一瞬の動きに彼女は息を呑んだ。
その真田の六文銭は、その紅蓮の甲冑は、その意思を宿した瞳は。

ゆきむら。

搾り出すまでに時間のかかった言葉だが、漸く口にできたとき、彼女は急速に心が冷えていくのを感じ取った。
居るわけのない義弟の姿を幻影として見せられていることに気づき、彼女は失笑する。
彼が生きているか死んでいるのか、もはや分からない。あの戦場の中潜りぬけたのだ、死んでいてもおかしくはない。

世界とは不可思議なもので、一人が居なくても世界は回る。
真田幸村という人間が死んでも、世の中は時を刻み、動いていく。
太平の世になって、幕府ができても根本的なことは変わらない。食べる、寝る。喜ぶ怒る悲しむ……何一つ、根本は何も変わらない。

稲はゆっくりと息を吐いた後に、彼の頬を包み込むようにして触れた。
それは信愛か、友愛か、家族愛か、恋愛か、どれであるかなど彼女には分からなかったが「そうすべき」「そうしたい」と思い、指先を滑らせた。
頬を触れられて驚いた幸村は何度か瞬きをしてみせて、唇を開いた。

あねうえ、と掠れたような声で呟く。帰り道が分からない子供みたいな顔と、声で。
どこか抜けているこの弟に、稲はゆったりと笑って「戻って来なさい、いつでも」と囁いた。


「あなたの帰る場所は、此処なのだから」


笑顔で迎えられるよう、いつでも待っていますよ。
ゆっくりと指先が離れていく。惜しむような表情をした幸村に、彼女は離れたばかりの指でこつん、と彼の額へ小突く。


「でも、戻ってきたらある程度はお説教しますからね、覚悟なさい」

ゆらり。
彼の陽炎は僅かに揺れて、どこか笑っているような気がした。
静かに音を立てて縁取っていた形を失っていく幸村の陽炎を稲は黙視し続ける。一秒たりとも見逃さないように、しっかとその瞳を凝らして、じっと見つめていた。
やがて、陽炎は音もなく消える。今そこに「幸村」としてあったものは何も残らず、彼女の手に撫子の花が握られ続けているだけだ。

「――待っていますよ、幸村」

いつだって、撫子の花を添えて。

暑い、夏の日。天下が変わっていった日。あの日見たもののふの瞳と同じ瞳を今、自分はしているだろうか。
稲は自分に問いかけ、そしてやんわりと首を横に振った。視線の先は違っていたかもしれない。時に敵として向かい合い、得物を構え突きつけあったこともある。
だが、稲にとって彼は誇りであり大切な、守りたいと思った人間の一人だ。言葉にすればいつもと同じように柔和な笑顔で「有難う御座います、義姉上」と言うのだろう。想像がつきすぎて、思わず彼女は笑った。
どこか、幸村が笑っているような気がして、稲は自然と緩む頬をそのままにして空を見上げる。

荒地に突き刺さる一本の槍。
静かに撫子の花が傍らに置かれ、優しい風に揺られた。

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