どうぞ、お元気で



気づけば幸村は桜の木の下に立っていた。
何故此処に居るのか、と考えた後の結論としては此処は死者のいる場所、ということにした。
桜の木の下では、亡き信長と秀吉が酒を飲み、その横に三成が居て、思わず「何事ですか」と幸村は一歩踏み出す。彼らは生前とは随分と異なり穏やかな表情をしている。
少し向こう側を見つめているので、つられて彼もまた、顔を上げる。

そこには家康が居た。
ただ、じっとこらえるようにして、得物を掴み、闘う姿に彼もまた、もののふであったのだと改めて幸村は感じ取る。


ふと、義姉の言葉が蘇った。

日の本一の兵。

そんなものにすがらなくてもいいものを、と政宗は言った。道はわしが作ってやるから、とも言った。
直江もまた、生きていなければ意味など無いと言った。
甲斐姫もまた、何かを言いたそうに瞳を揺らして「どうして、そこまで」と繰り返していた。彼女の後ろに控えていた彼の忍もまた、同じ気持ちだろう。

一度拾い上げられた命は、ゆらゆら炎のように揺れる。

義姉は幸村との戦いのさなか、涙を流しては居なかった。負けん気の強い、初めて戦場で合間見えたときと同じ瞳で、弓を構えて幸村を見据えていた。
戦って、地に彼女が這いつくばった瞬間、言いようのない罪悪感が襲ってきたのを幸村は思い出す。

義姉は、特別な存在であった。
いつから、と聞かれればおそらくは初めて見た瞬間だ。
戦場で三河武士と共にあったその時の姫武者は、何故此処に居るのかと聞いた。
その質問に逆に質問を返せば、彼女は驚いた顔をしていたもので、後に義姉になってから聞けば「その通りだと思ったから」と笑うばかりだ。

義姉という存在は真田家にとっては不思議とよく馴染んだ。元々姫武者として戦場で立っていたからかもしれない。
けれど、あの家康嫌いの父を相手に、家康の養女として、本多忠勝の娘として毅然とした態度と優しい表情をとっていたものだ。
あの父が、稲を前にすると柔らかく笑うのだ。そして、夫である兄もしかり。確実に、稲が真田に嫁いできてからというものの、真田家はいい方向へと変わっていった。それは政ではないが、心の中で、確かに変化をもたらしていく。
父も、兄も、そして自分も。確かな変化を彼女から貰ったのだ。

その点で自分はどうであったのだろうか、と幸村は向こう側でボロボロに成りながらも立っている家康の傍らに立つ稲を見つめて思う。
稲に、少しでも何か返せただろうか。

死ぬことは怖いと思ったことなどない。もののふとして死ぬのであれば、その生き様を見せつけて死ぬことは以前から決めていたことだ。それを信玄に言えば「死んでは、意味ないよ」と諭されたものだが、考えは変わらなかった。
稲と撫子の花の前で交わした時もまた、彼女は「生きて」と訴えていたが、それもまた受け止められない。

武士とは死ぬことと見つけたり。
そう、幸村は今も尚思っている。

後悔はないのか、と三成が扇を何度か叩きながら幸村に尋ねた。
彼は首を横に振り返し、苦笑いを浮かべた後に何とも言えぬ溜息をつく。
妙に生々しく、自分がまだ「死んだ」という実感すら湧かなかった。

「後悔のない人間など、居りますでしょうか」

稲と信之の子たちに様々な話をしてやるのも悪くなかったかもしれない。稲より教わった弓の使い方をもう少し、試してみたかった。
彼らの子供、すなわち己の甥、姪たちの成長を見守るのも良かっただろう。
穏やかな、明るい、敵味方別れない真田家。明るい父、穏やかな兄、まっすぐな義姉。
……時代の流れなのか、それともまた、決断し続けて選ばれなかった選択肢の迎える展開なのだろうか。

「……後悔していないといえば、嘘になります」

けれど、これでいいのだ。
そういう幸村に対して、三成は呆れたような顔をして、ふん、と鼻を鳴らした。


「それで、その顔か」
「は?」
「義姉が、好きだったのか」

確かに義姉上、義姉上と言っていたしな。三成はどこか楽しそうに、どこか呆れたように言う。
幸村は困ったように静かに口端を緩めた。どう答えたらいいものか、もう死んでいるのだから意味なんてものはないのだけれど。
自分の感情にさえ疎い幸村が恋だの、何だとということに気づけるわけもなく、故に朴念仁として彼の忍から思われ続けても尚わかっていなかったのだから、自分の思いになど到底気づいているわけもないだろう。
そう、三成は思っている。
けれど彼が度々「義姉上」というとき、その中には恋情や憧憬や愛情がある気がした。
人妻に。しかも自分の兄の嫁に。よくある話といえば、よくある話だ。けれど、呆れてしまう。
幸村は少し笑いを浮かべた後に、呟いた。


「ええ、私は義姉上を愛していますよ」
「……は?」


唐突過ぎて、どんな顔をしたらいいのか分からない三成に、幸村は笑った。
秀吉が「わしもねねや茶々を愛しておるぞ!」と力説し、信長は静かに笑うばかり。何だ、この空気は。思わず三成は頭を抱えた。
幸村は苦笑をやめて、「義姉上には、幸せになってもらいたく思います」とぼんやりと稲を見つめた。
稲は、揺れる瞳で死屍となった幸村の骸を見つめている。
涙は、もう流していない。それだけでほんの少し彼は安堵した。出来れば、泣いていて欲しくないから。

「幸村」
「三成殿」

義姉上には秘密ですよ、といたずらっ子っぽく幸村は笑った。
彼の物言いにどこまで本気にとっていいのか分からなかったものの三成は「そうか」と言い隣で楽しそうに笑っている若かりし姿をした秀吉と信長を見た後に、もう一度幸村を見る。
彼の目はまっすぐに稲に向かっていた。
穏やかで慈愛に満ちた瞳に、それは恋なのか、と思わず尋ねたくなったが、彼はこれ以上は何も問うことはするまいと堪える。
不意に、彼らの前に家康が居た。
彼は信長と秀吉と酒を酌み交わし、新たな時代の幕開け、乱世の終止符を喜んでいるようだ。酒を三成に薦めるが、三成は体全体で拒否する。

「みつなりぃー、素直じゃないのう、このこのっ」
「やめてください、秀吉様」

そんな会話の横で、幸村は家康の持っていた盃を両手で大事そうに手にした。
驚いた顔をした家康に困ったように笑うしか無い。
幸村はへにゃり、と曖昧な笑顔を浮かべてみる。家康は驚いた顔を後、頭を下げた。

「家康公、義姉上を、真田に嫁がせていただき、ありがとうございました」
「……稲は、よき姉か?」
「はい、もののふとして、人として、義姉上は素晴らしきお方です」

故に自分のせいで泣かせてしまい、申し訳ないと彼は頭をたれた。
姉はきっと、自分を止められた無かったことを後悔するのだろう。そう思いながらも自分の決めた道を突き進んでしまい申し訳ない気持ちと、どうしても譲れなかったのだという気持ちが交錯する。
家康は少しだけ、笑った。

「稲は、自分で決断し続ける娘ですからな」
「そうですね。義姉上は、お強い」

そして彼女には真田がある。兄がいる。きっと大丈夫だ。
心に言い聞かせながら、彼は家康から受け取った盃をぐい、と飲み干す。独特の味が口内に広がり、ゆっくりと染み渡っていく。

どうか、どうか。
「太平の世に、幸多からんことを」

はらり、ひらりと桜が落ちてくる。まるで命のように、ただ、ただ、静かに。
幸村はそれをまた見上げながら、ごくりと酒を呑んだ。

そちらの世界で、どうぞお元気で。

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