一年たった紅葉に思う



 花梨が目覚めたとき、あまりの寒さにぶるりと身が凍える感覚を覚えた。
 寒い。
思わずため息をこぼせば息は白く濁る。ゆっくりと起きだして外を見れば、一年前自身がやってきたときと同じく紅葉に染まりあがっている。
 太陽暦で言うところの何年なのだろう。
 思わず指折りし数えて見るが、一年たった今でも覚えきれていない。何より頭がうまく働かない。
 重たい頭をどうにか回転させようとするが、瞼が重たい。
 うつら、うつら、と頭が小刻みに揺れて、そして彼女はそのまま頭から床に抱きつく形になってしまう。
 ごん、と鈍い音が響きわたる。

「――……痛い……」

 ふんだりけったりだ。頭を思わず抑えると神子様、いかがしましたかと朝早い女房の声が御簾ごしから響く。
 この世界に住人というものはずいぶん早起きなものだ。
 花梨は慌てて「大丈夫」と彼女を下がらせると服を着替えるべく再び立ち上がった。

 あまり気にしていても始まらない。
 ……とはいっても、この京の災厄は既に取り除かれ、龍神の神子である花梨のなすべきことは終えた。
 絵本でいうなれば「彼らはもとの姿を取り戻し、幸せな生活に戻りました」でお手打ち、ハッピーエンドである。
 けれど、この日常は花梨にとっての「非日常」から「日常」に変わり、ハッピーエンドのその後として日常は今も尚、続いていく。

 帰らなくて良かったのか。
 時折幻聴のような形でアクラムが囁く。
 彼の姿はどこにもなく、彼は龍の清らかな光によって浄化され――百年の孤独からついに解き放たれた。
 ゆえに、彼女の耳にアクラムの声はもう届かない。

 愚かしいことかもしれないが花梨は彼が嫌いではなかったし、むしろ思慕に似たものを抱いていた――かもしれない。
 たった一人で堕ちたこの世界で、この世界に「存在していること」を認めてくれた人であることに変わりなかったし、紫姫の期待、院と帝からの期待が段々と大きくなり重圧のように圧し掛かってくる中で「神子」である自分と「ただの高校生」だった自分の部分を見つけてくれた人でもある。

 憎み切れない。嫌いになれない。
 たとえ彼の存在が京を脅かし、人を傷つけたとしても、彼は自身にとっての恩人であることに変わらないのだ。

 恐らく、そのことを言ったのならイサトあたりが「馬鹿じゃないのかお前!」と怒鳴ってきそうで、その言葉言葉が安易に予想がつき、思わず花梨は噴き出した。
やりかねない。

 願わくば、彼が安らかな眠りにつけますように。花梨はじっと紅葉を見つめながらそんなことを小さく祈った。
 アクラムの声で囁く言葉の真意は、恐らく自分自身の深層心理だ。
 本当にここに残って良かったのかという戸惑い、迷い。
 それが「敵」であったアクラムの言葉で再生されるだけで、耳をふさいでも尚聞こえるのは、本当は自分自身の言葉だからだ。
「神子様、おはようございます」
「――あ、うん、おはよう、紫姫。あのね、ちょっと出かけて来てくるね」
「まぁ、このような朝早くにですか?」
「うん」

 いろいろ思うことがあって。花梨はわずかにそう笑うと紫姫に「朝ごはんまでには戻るね」と言い残し、水干の紐をきゅ、と結び、彼女の横を通り過ぎた。
 花梨!と深苑が何やら少したって呼んでいる気がしたが――多分何とかなるだろう。
 思わず口元を緩め、彼女は人通りもまだ少ない街中を歩いていく。


 彼女がこちらで過ごしはじめて、もうすぐ一年になる。
 この一年、様々なことがあったものだ。院と帝に直接顔を合わせる羽目になったり、翡翠が伊予に戻ってすぐにまた帰ってきて「君が望むのならいつでも外に攫いだしてあげよう」と冗談か本気か分からないようなことを言われたり、この世界のしきたりにも大分慣れた。流石に十二単を着て過敏な動きも出来ないので、不便ではあるが――。
 町はまだ復興の中にあり、末法思想もまだ消えない。人々の心を救うのは最終的に、その人自身であり、花梨にはどうしようもない。ただ見つめて「頑張れ」「負けるな」と叫んで終わりだ。
 そんな言葉が何になるのだろう。花梨はじっとその掌を見た。

 一年前はその身に強大な――神の力を与えられ、その力の反動で倒れることも多かった。
 けれど今は、ただの人間だ。神子という役目も、もうない。
 あれほど願っていた「平穏」「日常」が、今この掌の中にあるというのに、逆に自分自身がこの世界にいる理由なんてものもなくなってしまった気がして、彼女はほう、とため息を再びつく。
 なぜあのときに帰らなかったのだろう。

 二度と、友達や家族とも会えないということも分かっていた。そして、現代人の自分がこの世界になじむことがいかに大変かということも。
 けれども応龍の“神子自身の願いを叶えよう”という言葉に、沢山の願い、望みの中で――残った言葉は、とても簡単なもの。
「私の好きな人たちが、健やかでありますように」

 帰りたい。戻りたい。
 それ以上に、幸せになってほしいと願った。けれど幸せになるならないは人が決めなければならない。龍の神はそういった。花梨の願った些細なことだ。明日も、明後日も、ケンカをしたり、馬鹿を言いあったり、笑いあったり出来ればいい。傷つけて、傷つけられて、そうやって人は強くなることを花梨はこの少ない時間で学び感じ、そして強くなったからこそ願った。その結果、彼女は帰る術を失い、「戻ってきちゃいました」と笑って紫姫と千歳に涙ながらに抱きしめられた。
 ――帰れなかったことを後悔しているのではない。
 これはこれで良かったのだ。そう花梨の中では「片づけた」ことだというのに。時折起きる衝動に、彼女は叫び散らしたくなる。
 情緒不安定と言ってしまえばそれきりかもしれない。
 けれど――「神の力」を失った「神の子」はどうすればいいのか。
 そこまでしっかりと考えていなかったせいで、彼女は頭を抱えてしまう。
 だがその抱えようとした手をぐい、と引っ張られ「おい!」と怒号に近い声が耳に響く。驚いて顔をあげればそこには見覚えのある顔がいた。
「うわっ、勝真さんいつからそこに!」
「ずーっとお前がブツブツ言ってるあたりから」
「どこですか!」
「何度も呼んだのにお前が返事しないからだろ」

 京職の青年――元八葉、地の青龍兼黒龍の神子の実兄は首をかしげて「おかしな奴だな」とわずかに笑った。何だかんだで残った花梨に対して世話を焼いてくれる人間の一人だ。妹である千歳との仲も最近は大分良くなったらしい。
 花梨はのんきに「すいません」と頭を下げて小さくへらりと笑った。気の抜ける笑顔に勝真はわずかに目を張り、いや、とすぐに視線を逸らしてしまう。

「どうしたんだ、こんな朝早くから」
「あ、ちょっといろいろ考えたいことがあって――……」
「考えたいこと?」
「その、これからどうしよう、とか」

 随分と今更すぎる発言に思わず勝真は「はあ?」と素っ頓狂な声をあげた。
 普通、そういうものはこちらに残ると決めてからすぐに考えるものではないのだろうか。思わず眉間に皺を寄せると花梨は慌てて手をぶんぶんと振り「いや、その、お世話になってるのに結局何もしてないなぁって」と取り繕うように言うと、表情をわずかに変えた。
「……もう、一年になりますね」
「ああ……もうそんなになるか」
「ええ」

 花梨は街へ視線を向けた。それにつられ、彼も視線をそちらへ向ける。
 人通りはまだ少ない。
 ふ、と勝真は花梨の足元を見た。
 そこには、この世界に来た時に履いていた奇妙奇天烈な履物ではなく、少し丸みがかかった草履だ。そういえば、最近花梨はあの靴も――そしてあちらの衣服も、着ていないような気がする。
「花梨」
「はい?」
「……履物、変えたのか?」
「ああ―…あれ、壊れちゃったんです」

 踵の部分がべこべこになっちゃって。少し困ったように花梨は笑いながら言うとすぐに「でも、紫姫が草履をくれて」と朗らかに笑った。
 彼女は町娘のように行動的なせいか、末席といえど貴族の勝真や紫姫たちの思いもよらない行動にでることも少なくない。
 それもこれも、元々異世界の人間だったからなのだろうか。
「……お前、無理してるのか?」
「え?何がです?」
「……」

 無理をしているわけではないかもしれない。けれども、勝真には彼女がとても朧気で、弱く見えた。短い髪をそよそよと風に遊ばせて、花梨はぼんやりとやはり視線をどこか遠くに向けている。
 こちらの世界に残るという決断を花梨がしたことを、勝真は良かったとは思っていない。出来れば帰ってほしかった。この世界に彼女を縛るのは、此方の人間の我儘だ。けれども、彼女はこの世界に残った。そのことに感謝しているが、同時に無理をしているのではないかと常々気になっている。それは他の八葉も同じのようで、紫姫の館には以前と変わらず人が行き来しており、頼忠やイサトたちとも顔を合わせる日も多い。

「お前は」
「何です?」
「――や、やっぱりいい」
「?」

 彼女がアクラムに対して思慕を抱いていたことなんて、勝真にも分かることだ。アクラムが敵だと知れた時の彼女の表情は困惑に満ちていて、嘘だ、と震えるような声で呟いたことを今でも鮮明に覚えている。
 それは、恋心だったのだろうか。
 勝真には、分からなかった。けれどこうして、彼女は笑って今ここにいる。

「――強いな」

 その衣に彼女は袖を通さなくなった。その履物を彼女は履くことをやめた。
 けれど、彼女は初めて出会ったときと変わらず屈託のない、のほほんと、ぼんやりとした笑顔でそこにいる。
 花梨は「とにかく、何かしないと本当申し訳なくて」とぐ、と拳を作り言うので勝真は手を横に振って「やめとけ」とけろりと言い放つことにした。彼女の言い分は分かるが、花梨は英雄であり、神力を扱えた人間だ。
 人間を害すのは人間、というのはよくぞいったもので、実際問題人間が一番怖い。
 いつ彼女が再び政の中で利用されないともかねない。
 それは忌避すべきことであり、八葉間でも時折話題になったのを思い出す。
 親王である泉水や東宮である彰紋がいる以上恐らくは問題はないと思うが――外戚関係で婚姻を結び力を得ようとする一族の姿もある。
 彰紋や泉水に近づくために神子をたて、彼女をあてがわせるという可能性もある。何より彼らは八葉だから、それを盾に使われかねない。
「お前は、そのままでいいんじゃないか?」
「……私、この世界にいても何も役に立ってない気がして」
「馬鹿だな、立ってなかったら京は前のままだったんだぞ? …少なからず、俺と、後そうだな、千歳にとってはお前がいることで今も救われてる」

 千歳は随分と明るくなったようだ。
 元々姫として屋敷の奥にいて、屋敷も違うようになってからは顔を合わせることも年の挨拶ぐらいなものだったというのに花梨と出会い、花梨と共にこの京を救ってからは文を送ってくることも多い。文の内容は大抵花梨との日常で、勝真も花梨が来たときに顔を見せてほしいという催促だ。
 また、勝真自身にとってもあれほど隠していた閉所恐怖症も、暗所恐怖症も、彼女の力を借りるに等しい形ではあるが払拭できた。自分自身の過去と向き合うことで見えてきたことも増えてきて、そして何より自分はこの京というものへの愛があるのだということに気づくことが出来――……彼女は気づいていないだろうが、様々なことに気づかされた。
「だから、あんまり気にするな」
「……はい」
「さて、そろそろ帰るか。……紫姫が心配するぞ?」
「そうだった!」

 朝ごはん。思わずつぶやいた彼女の言葉に彼は思い切り吹きだして笑った。
 そうだ。どんな状況でも腹は減るもので、疲れたら眠くなる。そんな当たり前のことだというのに、彼女が言うと妙におかしく思える。もう、と花梨が少し怒ったように眉を顰めたが、すぐに彼女もまた笑った。
「送ってってやる。乗れ」
「わ、ありがとうございます」

 呑気で、ぼんやりしていて、危なっかしい白龍の神子。そして、その八葉。
 戦って、悩んで、様々な苦難と立ち向い、成長し続ける彼女の背中がほんの少しばかり小さく見えて勝真は苦笑した。彼女に頼られたい。そう思わずにはいられない。
 きっとまた悩んで、考えて、困っているのだろう。そして、頼ってくれればその鏑矢を引くことだって、彼女を抱きしめることだって出来る。
 自分は、彼女の八葉なのだから。けれどきっと、彼女は自分のことより周囲のことを考えてしまうのだろう。全く損な役回りで、器用貧乏な人間だ。ご、と彼女の後頭部に顎を乗っけると花梨が「何ですか?」とくるりと振り返ろうとする。
 それは、恋にも似た感情で、彼はふ、と小さく笑った。

「勝真さん?」
「いいや、何でもない。飛ばすぞ!」
「え、ちょ、うわっ!?」

 これが恋なら――彼女は、どうするのだろうか。きっと八葉であったときなら、もっと近くで気付けただろう。
 けれど、気づくのが遅すぎた。
 これは恋なのか、と彼は内心自分自身に尋ねる。
 答えなんて出るわけがなかった。けれどふわふわと振動によって揺れる紅葉よりも色濃いその茶色の髪をそっと撫でてみたいだとか、抱きしめて見たいだとか、そんなことを思う。
 おかしい。
 ほんの少し前までは「守るべき対象」だったというのに、どんどんと引きずり込まれている。
「―――っ! ああくそっ!」
「ちょ、か、勝真さん紫姫の館通り過ぎてます!」
「何!?」

 そんな、彼女と出会って一年たった秋の日のこと。

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