色を失う、君の


「じゅうぞ」

 彼女は荒れた呼吸の中で、おっさまを、と必至にその弱々しい手で法衣を掴み懇願する。彼は黙って首を横に降った。汗と、血の涙が滴り落ちる。蝮の白い肌に、真っ赤な跡が残り、そしてそれは外気に触れて黒く染まる。
 蝮の言葉を全て無視し、柔造は医工騎士に彼女を預けた。当初「裏切り者」という言葉に困惑し、治療をためらった人間もいたが元々蝮が明陀に尽くしてきていたことは長く居る人間ならばわかる。
 医工騎士の中でも重鎮的存在の老祓魔師が率先して彼女を引きとったことで若手集も彼についていく。
 けれど、傷は癒えるだろうが目は見えなくなるかもしれない、と老医工騎士は言った。それでも努力はしてみる、最善を尽くすと彼は言い、重象の背中を押してはくれたが……不浄王の目という瘴気の源を体に取り込んだのだから当たり前といえば当たり前の話だ。
 それでも、医工騎士の話を耳にした時、確かに志摩柔造はショックを感じそれを幼馴染である宝生蝮に伝えるべきか否か悩んだ。いづれは彼女の耳にも届くことではあるが――傷つけられて、まるで使い捨ての物のように捨てられた蝮のことを考えると胸が痛む。眼の前に座っている彼女の体はもう満身創痍だ。
 真っ白の髪がさらりと揺れて青白い肌が益々青くなっていることがわかる。修行で重ねた傷痕ではない魔障の痕は身体中に広がっている。
 蝮に「おっさまのことは俺が何とかするわ、阿呆」と言い、頭をさらりと撫でる。妙に肌触りのいい髪だ。彼女は頭を撫でられたことに安堵したのか、「ありがとう」と京ことば独特のイントネーションで消え入りそうな声で呟いた。
 部屋を出た瞬間、ぶわ、と身体中の毛が逆立つのを柔造は肌で感じ取った。

 藤堂、と腹の底から随分と低い声が出る。
 赦せなかった。蝮は女だ。
 どんなに本人が突っぱねて、性差を否定しようとも彼女は女にすぎない。跡取りとして教育され、生きてきた彼女の明陀を思う心に付け入り、全てを黒く塗りつぶしそして彼女を捨てた。どれほどの時間、彼女は悩んでいたのだろうか。途方もない時間に柔造はその間の時間の自分が行なってきたことを恥じた。気づいてやれるとしたら、それは自分の役目だったはずなのに、自分は気づいてやれなかった。拳を壁に打ち付ければ痛みこそあったが気持ちは晴れなどしない。こんなことをしている場合ではない。そんなこと彼だって分かっていた。

「どないしたらええん、兄貴」

 既にもう亡くなった兄を思う。人格者で非の打ち所が無い兄。自慢の兄。仲が悪いという建前を持つ宝生の人間すらも認める兄。そんな兄の年を、彼はもう超えていた。
 もう兄の背中はどんなものだったかは思い出せない。示唆してくれていた人は居ない。どうしたらいいのか分からないのは、きっと蝮だけではない。自分もなのだ。
 蝮の言った言葉はすべてそのとおりで、和尚達磨から聞かされなかったが故に不穏な空気が流れたのも事実だ。蝮がずっと不信感を抱いていたのも仕方がないだろう。
 サタンの息子のために全てを持っていかれて、結果として残ったのは「祟り寺」というレッテル。そして裏切りではないかというより大きな不安、不信、不穏な空気。
 だが、それは全て裏切りの原因だとしても「裏切ったのは蝮」という事実に変わりはない。恐らく彼女は処断されるのだろう。けれど、柔造は彼女を処断したくはない。おそらくはきっと、父たちもそうなのだろう。それは昔からの付き合いだからとかそういったものではない。
「誰よりも明陀のことを考えている」ということと、最も悪いのは藤堂であり、彼女には情状酌量の余地があるだろう。

「しま!」

 名を呼ばれ、彼ははっと顔を上げた。そこに居たのは幼い頃の蝮によく似た末の妹だ。まだ宝生の蛇との契約はしていないのか刺青は施されておらず、幼さがより色濃く残っている。
 蝮より喜怒哀楽の激しい末娘はその蝮によく似た瞳で彼に縋った。姉様を助けて、おっさまを助けて。ぼろぼろと彼女は泣き、今にも土下座でも何でもしそうな勢いだ。姉に懐いていたからこそ、姉を慕っていたからこそ、姉が裏切り倒れるのを彼女は信じたくないのだろう。
 きっとそれは、末娘だけではなく、真ん中の妹や父である蟒、そして犬猿の仲と称されども幼馴染であったり長い付き合いの志摩家にも言えることだ。
 ふ、と先ほどの蝮を重ねて思い出す。血の涙は流しながらも彼女は涙を見せなかった。ただぶるぶる震える唇と、手で師を、と願う。自分のことなどどうでもいいと。裏切り者なのだから、いいのだと彼女は言った。彼女の代わりにボロボロと妹は泣き、彼女の父は気丈に振る舞い心のなかで泣いている。
 泣いている宝生の末の妹を思い切りわしわし、と撫でて「おっさまも蝮も、皆で助けような」と言うとぽんと背中を叩いた。きょとんとした表情をしていたが、ずず、と鼻をすすってうん、と頷くと彼女は本来自分が行かなければならない場所へと戻っていく。父と、姉と、仲間たちのもとへ。

 その背中を見送った後、ふう、と彼は一つ深呼吸をするとゆっくりと口を開いた。

「蝮は、うちの、明陀の女やぞ……」

 蝮の苦しそうな顔を思い出す。声を出すのも張り上げなければでない程の痛みの中で「おっさまを」という懇願をし続けていた蝮を柔造は阿呆だと思う。
 けれども、彼女の考えを否定はしなかった。
 きっと恐らく、蝮の立場になっていたのは一歩間違えれば自分で、一歩間違えれば廉造で、一歩間違えれば勝呂竜士だったのかもしれない。明陀の人間ならば蝮とおなじになる可能性はあった。
 ぐっと柔造は顔を上げ歩き出した。
 明陀の人間として、祓魔一番隊を仕切る人間として、志摩家の亡き兄を継いだ跡取りとして、そして幼馴染として男として、藤堂は赦し難い悪魔だ。彼は沸点低い人間であったが、妙に落ち着いていた。思い切り息を吐ききり、そして息を吸うと、より世界がクリアに見える。
 普段の短気な部分が影に潜み、恐ろしいほどの冷気を漂わせていた。
 何も知らない人間が見ればあの柔造が怒り狂わないのを珍しいと言うだろう。粛々と、戦いに向かう彼の背中にはたくさんのものが背負われている。柔造を見かけた彼と付き合いの長い祓魔師は声をかけるつもりが言葉を失って唯呆然と背中を見つめていた。人を惹きつける、少々短気が玉にキズなあの男が、誰も近寄らせようとはしていない。あんな志摩を、彼は知らない。

「……藤堂、うちのモンに手ェ出したこと、後悔させたるで」

 お前が思ってるよりずっと、もっと明陀の絆は強いんや。ぼそりと柔造は呟くと静かに戦いへと赴いていった。
 怒り、憎しみ、殺意。それらすべてを飲み込んで、あれほど熱血的な男が冷静に立ち向かおうとしている姿に祓魔師は「あんなところもあるのか」と妙にしみじみとしてしまった。よほど蝮が大事なのだろう。それはきっと恋やら愛やらの部類の感情であろう。そういえばいつも啀み合っている割に何だかんだあの二人が食事をする時、兄弟がいない時は大抵一緒だ。蝮はどうだったのだろうか。多分嫌いではなかっただろう。
 そう考えたら何だか「お前ら甘酸っぱいのう」と笑えてきてしまった。こんな非常事態に、とも想う反面、「おっさまに言ったら驚くやろうなあ」としみじみと祓魔師は想う。
 あの人、色恋沙汰結構好きだし。帰ってきたらこっそり教えてやろう。だから早く助けなきゃあかんな。
 うんうん、と頷きながら祓魔師もまた柔造と同じように自分の持ち場へと戻っていった。

 そして、戦いが幕を開ける。


(色を失う、君のーーなんて、失わせなんかするかボケ!)

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