はたらくひと


「あてに名前などあらへん」

 淡々と彼女は言った。答えられた柔造は何を言っているのか分からず目を点にして「何言うとんの、お前」とついにこいつ頭が可笑しくなったかと彼女を凝視した。
 さらりと長い白髪を右手でかきながら「別に大したことやありまへん」と少し遠い目をしながら彼女は淡々と語る。
 宝生の長女、嫡子。その肩書に生かされている。それだけのことだと。肩書きを失えば彼女はもう名前も持たない人間であると。

「……お前アホやなあ」
「何や、言うに事欠いてアホって」
「ほんなら、俺の名前やるわ」

 そんでええやろ。
 訳もなく言い放った柔造に彼女は随分と驚いて、そしてその髪を梳いていた手をぱん、と彼の頭に持って行き思い切り叩いた。叩かれた頭は彼女の艶のある絹のような髪とは違い、少し固い。
 何するんと睨みつけた柔造に呆れて、彼女はぷい、と横を向いてしまった。

「誰も俺の名前も呼ばんと、それならお前にやるわ」
「阿呆、そんなもんいらんわ」
「名前が無い言うたのはお前やろ」

 ついつい喧嘩腰になる柔造に彼女は薄く笑った。そういえば、彼女が瞳を失ってから初めて此処まで話をしたような気がする。さらり、と髪が揺れる。
 名前がなくても良いと思うんよ、と彼女は自分の気持を吐露した。
 肩書きに縛られていた彼女はもう居ない。

 目を失い、肩書きを失い、信頼を失い、それでも彼女はまるで鳥のように自由だ。そして、鈴が鳴るように言葉を紡ぐ。
 失った時間を取り戻すように、ゆっくりと、ゆっくりと。

「志摩の名前なんて、いらへんよ」
「……まむし」

 彼女は止まっていた足を漸く踏み出したのかもしれない。遠くにいた彼女は柔造の目の前に居た。手を伸ばせば触れられる。
 背中合わせだった近くて遠い距離が今は目の前に居る。背中合わせの距離よりは遠いけれど、手を伸ばせば触れられる。肉眼で「そこ」にいることを確認できる。

「――なんで、そこで泣くんや」
「泣いてへんわ」
「いや、泣いてるやろ」

 片方の瞳で彼女は泣いた。ぽろぽろと落ちる涙は畳に落ちて沁みが出来る。頭をわしわしと乱暴に撫でれば「後生やから泣かいで下さい」と妙にかしこまって柔造は言う。
 蝮は少しだけ、笑った。

「あんたは、私で、私はあんたやのにね」
「……言うてる意味が分からん」

 彼女は言う。渚に映る、水面に映るあんたは私で、鏡のようなもんやろ、と笑うのだ。男と女、祓魔師同士。嫡子同士。跡取り同士。裏切り者と彼女を止めたもの。ある意味で彼らは真逆で、ある意味で彼らは同じだった。
 宝生という渚から彼女は遠ざかり、緩やかに螺旋を描く。そこを離れるわけでもなく、そこにいる。

「蝮」

 思い出したように彼は彼女に手を伸ばし、ぐいと引き寄せる。予想以上に彼女は軽く、身がふわりと浮いた。重力に従い彼女の体は柔造のもとに落ちて、ぽすんと小さな音が響く。
 何しはるの、と彼女の目が訴えていたが、彼は彼女を無視した。
 ぎゅうぎゅうと痛いくらいに彼女を抱きしめて、何度も彼女の名を繰り返す。

「蝮」
「なん」
「――蝮」
「……おん」

 溢れ出したように、塞き止められていたものが全て崩れるように彼は彼女の名前を読んだ。ずっと呼ばなかった名を読んだ。
 「宝生の長姉」「宝生の嫡子」「宝生の跡継ぎ」「深部の責任者の一人」「明陀の今後を担う若手」
 そんな肩書の全てに隠されていた彼女を、やっと見つけた。

「蝮」
「……重いわ、阿呆」
「おん」
「離しぃ、柔造」
「いやや」

 やっと捕まえた。やっと触れられた。泣いているのは彼女だというのに、声が泣いているのは柔造だった。彼女は行き場のない両手をそっと彼の頬に触れて「なあ」と宥めるように彼に言う。
 優しい香りがして、血の臭がして、彼は顔をくしゃくしゃにして彼女を見る。

「名前、呼んだって」

 彼女の懇願に、彼は答えず頭をわしわしと撫でた後に「ほんに阿呆やなあ、お前は」と笑った。
 そんな懇願などされなくたって、彼女が宝生の嫡子だろうと長姉だろうと跡継ぎだろうと、自分が見ているのはいつだって肩書きを背負いながらも賢明に生きている「宝生蝮」その人だというのに、彼女は何も気づいていない。
 ぎゅう、と一度抱きしめて「蛇出すんも、殴るんも堪忍な」と薄く笑うと額にほんの少し、触れるだけのくちづけを落とした。
 まるで呪いだ。いつか気づいて欲しいという気持ちを込めたのはいつの頃か。じっくりと側にいるだけでは物足りなくなったのは何時だったか。

「お前も、名前で呼べや」
「――柔造の阿呆」
「阿呆はお前やろ。さっさと戻ってきぃ、そないな顔して坊やおっさまに心配かけんなや」

 つんとそっぽを向いた柔造に彼女は「ひっどい言い草やなあ」と小さく笑って彼の背中にぼす、と頭を預けた。
 じんわりと温かい背中に妙に泣きそうになったのは彼女だけの秘密で、背中を向けていた柔造が、抱きしめるか否か手をぷるぷるさせていたのは彼女の知る所ではない。


「まむし」
「なんや」
「――お前の名前くらい、いくらでも呼んだるわ」

 見失ったら、呼び戻すのは昔から俺の役目やからな。柔造はそう笑ったので、彼女――蝮は、やっと顔を上げた。
 泣きそうだったのが嘘のように涙は引っ込んで、今度は柔造を凝視している。
 蛇のように瞳孔の開いた瞳は益々丸くなっていて、どこかおかしい。

「お前も、別嬪さんになったんやなあ」
「…………何やそれ、おだてても何も出ぇへんよ」
「痛っ、何も頭突きすることはないやろ、本心やで」
「黙りよし!」

 真っ白の髪と真っ赤な頬はまるで並んでいると紅白まんじゅうのようで、どことなく美味しそうに見える。
 薄く柔造が笑えば「何なんやあんた本当に」とそれ以上もう、何も彼女は言わなくなった。

「さっさと、復帰しい、阿呆」
「せやけど」
「破門されたなら本当に俺の名前やるで、それで問題ないやろ」
「大有りや阿呆!」

 彼の全くを持って周りを気にしないその言動行動に目を白黒したり顔を赤らめたり本当に蝮はらしくない、と頭を抱えそして大きなため息を零す。

「あんたには敵わんわ、頭の悪さも」
「おうそりゃどういう意味や」
「申になんか一生分からへんやろなあ」
「可愛いないわ」
「お陰さんで」

 ああ言えば、こう言う。テンポの良いやり取りに柔造は眉間に皺を寄せていたのも馬鹿らしくなったのか小さく笑って「お前はそんまんまがええわ」と妙に笑ってまた何度も彼女の頭をわしわしと撫でた。
 何度も俺が読んでやるわ。照れくさそうに言った柔造に素直やないのはどっちや、とくいと裾を引っ張りクスクスとやっと笑った彼女に安堵しつつも「やかましい」とまた言い合いを始めたのは少し後のこと。


「…………つーかな、柔兄。名前やるっちゅうのは、そりゃ俺的にプロポーズやと思うんやけど」
「しい、金兄。言ったらあかん、俺も思うたけど! せやけど今行ったら野暮やで!」
「ツッコむべきやないのかこれは……!ああじれったい!じれったいわボケェ!」

 ぐいぐいと桃色の髪をした少年が必死に金髪の兄を止めていたなど、彼らはつゆ知らず先ほどと変わらぬ他愛のない会話を続けていた。
 最終的に「おんどれらさっさと仕事せんかい!」という所長の怒号で全員が揃いも揃って正座をさせられ、覗き見をしていたことがばれて真っ赤になった蝮が「申の阿呆!!」と騒ぎ立て、ついでに蟒に「やかましいのはどっちや」と鼻を摘まれたのは後日談である。

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